日本人が知らない歴史に見る日本人集団虐殺事件


Cheers 2017年 10月号記事


今日本で「歴史戦」という言葉がしきりに使われています。戦争は情報戦から始まります。ここでいう情報戦とは歴史問題を自国のポジションを優位に導くためのプロパガンダの材料として使うことです。具体的には、突如靖国神社参拝が非難されるや、南京事件、慰安婦問題が繰り出され、次のカードとして徴用工問題、朝鮮人関東大震災虐殺などが俎上にあがっています。

なぜこのような歴史的事件の掘り起こしが次々と行われるようになったのか。その鍵は元シドニー中国総領事館の外交官で、2005年にオーストラリアに政治亡命した陳用林氏の言葉にあります。陳氏はもと中国外交官として、オーストラリアで活動中の中国スパイ、1,000人以上を統括し、主な任務は法輪功信者の監視と弾圧でした。反中分子の拉致、本国送還にも関与、自らの非道な仕事に嫌気がさして、家族と豪州政府に政治亡命し、豪州議会、NZ議会、米国議会で自らのスパイ行為について証言し、からくも中国政府の手から逃がれています。彼は亡命当初から自宅を中国エージェントに監視され、尾行が常についていたと語っていました。今は反共産党活動を展開する中国人グループの広報担当としてメディアにも取り上げられています。彼はこう語りました。

「中国共産党の日本に対する一貫した戦略は、日本が独り立ちして自分の意見を言わせないよう、中国に対して謝らせ続け、悪いことをしたと罪悪感を持たせ続けることである。」
「それは例えば南京事件、慰安婦問題、靖国神社参拝問題などですか?」と問われると、それを否定せず、「外交カードとして使えるものは何でも使う、それが共産党のやり方だ。」と答えました。もちろん、日本を悪魔化することで、日米、日豪関係を分断し、日本を孤立させ、日米安保を無効化しようという意図もあります。慰安婦問題に北朝鮮が絡んでいるのはそのためです。

今は反共産党活動で熱弁をふるう陳用林氏












その一方で、ソ連、満州、中国、朝鮮半島で、多くの日本人居留民が虐殺された事件は歴史の授業で教えられることもなく、忘れられてきました。

たとえば、1937年7月29日に北京近くの通州で200人以上の日本人居留民が中国軍兵士によって虐殺された通州事件は、その酸鼻を極めた拷問、強姦、虐殺の仕方で歴史家の間では有名な虐殺事件です。その殺し方は日本人の及びもつかない凄惨なもので、目の球をくりぬく、頭を断ち切る、腹を裂いて内臓を引き出す、蜂の巣のように銃剣で突き刺す、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫く、子供を逆さまにして頭を叩きつけて殺害、子供や女性の鼻に針金を通し、牛を引っ張るように引っ張っていく、そのうえで子女の多くが陵辱され殺されました。

これら、日本人が知らない歴史上の日本人虐殺事件を振り返ってみましょう。


1.通州事件
通州事件(つうしゅうじけん)とは、日中戦争(支那事変・北支事変)の初期、盧溝橋事件3週間後の1937年7月29日に中国陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東(きとう)府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件です。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われました。通州虐殺事件とも呼ばれているほどの残虐な集団虐殺事件です。通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊であり、総勢110名程度でした。攻撃側人数は3,000人 – 4,000人、死亡者は通州在留日本人・朝鮮人385名のうち223名、内訳は日本人117人、朝鮮人106人。事件の翌日(7月30日)、日本軍が通州に向かっている知らせを聞いた主犯の中国人学生たちと保安隊員は即座に逃亡を開始し、日本軍到着時にはすでに保安隊員と学生の姿はありませんでした。
後世南京事件に中国がすり替えたとも言われているこの通州事件、日本人も知っておくべき歴史的事件です。今チベットで起こっている国民の1/4にも及ぶチベット人の虐殺はこの通州事件の拡大版です

当時の事件を伝える新聞記事。
 
被害者の写真


2.済南事件
済南事件(さいなんじけん中国では五・三惨案)とは1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍(南軍)による日本人襲撃事件です。日本人の被害は死亡者12名(のちの通州事件と似通った凄惨な殺され方。そのほか400名の重軽傷者が出ました。すべて暴行、強姦、略奪の結果です。世界大恐慌直前、1927年ごろは他国列強と同様、多くの日本人がビジネスのために大陸に渡りました。彼ら居留民を保護するため軍人も駐屯していました。1928年5月3日、満州日報の取次店が国民党軍(実際には共産党のシンパも紛れ込んでいました)により、襲撃、略奪されました。駆け付けた日本人巡査たちも多勢に無勢で暴行を受け、日本陸軍が駆け付けましたが、国民党軍は兵舎に遁走し、そこから銃撃し始めました。日本軍が応戦する中、今度は市中で国民党軍が乱射、略奪、暴行を始めました。ここで蒋介石が日本側に安全の保障をしたふりをしたので、日本側はバリケードを撤去したところ中国側が攻撃、惨劇が始まりました。陰部に棒を突っ込まれた女性の写真は足袋を履いているためそのままでは日本人とわかるのでイラスト化され、中国の歴史教科書に日本人の蛮行ということで掲載されています。また関係のない731部隊蝋人形館ではこのシーンが日本人の暴虐なシーンとして再現されています。中国流プロパガンダの極みともいえる例です。

実際の犠牲者の検死写真 東条きんさん(女性・24歳) 両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。

中国系アメリカ人女史アイリス・チャンの著書「レイプ・オブ・ナンキン」の写真


中国の歴史教科書(翻訳版)

中国731部隊記念館 「中国人に虐殺された日本人」が中国人被害者にすり替えられる













3.その他にもある海外における日本人集団虐殺事件
ここでは詳しく述べませんが知られている日本人襲撃事件を列挙してみます。

1)通化事件(つうかじけん)とは、1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊による日本人及び朝鮮人に対する虐殺事件。日本人約3000人が虐殺され、その多くが老若男女を問わない一般市民だった。

2)敦化事件(とんかじけん)とは1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。

3)真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。

4)葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)が攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。引揚者の回想録によると、ソ連軍の攻撃で、避難民1,000名以上が虐殺されたと主張される。

5)尼港事件(にこうじけん)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。

歴史にはこのような「学校で絶対に習わない」側面があることも忘れてはならないでしょう。